阪神淡路大震災からもうすぐ30年

こんばんは、スタッフのUです。

阪神淡路大震災からもうすぐ30年になります。被災した当事者の方々からすれば自身の記憶が薄れていく方が喜ばしくもあるとは思いますが、社会としては記憶が風化していくことは必ずしも喜ばしいことばかりではなく、当時の教訓がちゃんと語り継がれていくことも大事なことだと思います。

今日は、当時私自身が体験したことと、そこから得られるささやかな教訓について書きたいと思います。

私は当時兵庫県伊丹市の実家で被災しました。私の実家から1kmほどの距離のところにある阪急伊丹駅は倒壊し、この震災を象徴するものの一つとして震災当日からしきりにテレビで取り上げられました。

さて、問題は当時のテレビによる取り上げ方です。私の実家の地域は発災後まもなく電気は復旧したので(ガスの復旧にだけ数日かかりました)テレビは見られる状態だったのですが、各テレビ局はこの阪急伊丹駅「だけ」が映るような形でニュースを流していました。実は、阪急伊丹駅周辺のビルは(ガラスが割れているところはあったものの)傾いたり倒壊しているものは一つもなかったのですが、テレビはそれらをカメラの画角から外し、震災の悲惨さを象徴する駅だけを映して流していたのです。

阪急伊丹駅近くに住んでいて、地震の当時北海道にスキー旅行に行っていた私の同級生は、その倒壊した伊丹駅の映像を宿のテレビで見た際に、自分の家族が死んだと思い全身の血の気が引いた、と後に語っていました(幸い彼の家族は全員無事でした)。つまり彼は、倒壊した駅だけの映像を見て(自分の実家も含めた)伊丹市全体が崩壊したという印象を抱いたのです。

それは愛媛県に住む私の母方の親戚も同様でした。朝テレビをつけると、1階部分が完全に押し潰された阪急伊丹駅の映像が流れている。安否確認のため私の家に電話をしたけれどまったく繋がらない(当時は携帯電話が普及する前で、この震災後は電話回線が輻輳し震災地域では発信も受信もままならない状況が続きました。もちろん、インターネットの利用も一般にはまったく普及していなかった頃です)。私たちの方からも無事を伝えるために電話をしようとしましたが、それも繋がらない。「U (私)の家は潰れて全員死んだに違いない」、私の親戚一同そう思い込んだと言います。発災の日の夕方にようやく電話が繋がった際、「あああ…生きとったかぁ…!!!」と泣き崩れた伯母の声は今でもはっきりと覚えています。

思わず長い話になってしまいました。

マスコミに限らず、私たちはついつい刺激が強いものにばかり目を向けてしまいがちですが、それでは全体像を見失うことになりかねません。自分の体調などにしてもそうだと思います。人間のからだやこころはなまものですので、大きな事柄の裏にたくさんの小さな事柄が起きている可能性もあります。そういう、隅々にまで視線を行き届かせる姿勢を、今年も大切にしていきたいと思います。

本年も何卒よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です